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​聖書長老栄光教会を開拓し、50年が経ちました。地域に根ざし、地域に貢献する教会を目指して​走ってまいりましたが、教会開拓50年を期に主任牧師の座を後継者にゆずり、協力牧師として支えていきます。

 私は、5歳の時に戦争を体験しました。米軍が沖縄へ上陸したとき、逃げ遅れた私たち家族は沖縄市の自宅の防空壕に隠れていました。すると、米兵がやってきたのですが、捕まるのを怖れた私たちは毒を飲んで自決を計りました。ところが、どういうわけか誰一人として死ななかったのです。結局、その場で捕虜となりました。

 私の命は助かりましたが、父と長兄が戦死し、どこで亡くなったかさえもわかりません。一家の大黒柱がいなくなり、非常に貧しいなか母は必死に働いていました。しかし、私が、中学一年のときに病気で亡くなってしまいました。

 

 悲しさと侘しさと心の傷が癒えない中学二年のある夜のことです。急に心臓の鼓動が早く強くなり、胸が苦しくなったのです。今にも心臓が停止してしまうのではないか、というほどの苦しい症状に襲われました。すぐに病院へ連れて行ってもらうと、当時の医者はそれを「パニック障害」だということが分からず、疲労が原因だろうと判断し、カルシウムとブドウ糖の注射をしました。

 

 ところが、その日以来、毎日夕方になると同じ症状が出て、泣きながら家の中をうろつき回るありさまでした。朝は元気に学校へ行けるのですが、日が暮れてくるとあの症状が出てくるのが恐ろしくて、不安が募りました。私は、恐れや不安にとりつかれて、だんだんと無気力な状態になりました。その症状があまり表れなくなってきたころ、末っ子の私だけは高校進学を許されました。そこで就職に有利な商業高校へ進みました。

 

 商業高校に通うようになると、ある授業で使用するプリントの端に、いつも小さい文字で聖書の言葉が印刷されていたことから聖書に興味を持つようになりました。当時の恩師は、クリスチャンだったのです。その先生は、希望を持つことや勉強することがいかに大切かを教えてくれたうえに大学進学を勧めてくれました。先生は、時間外に私たちの勉強の世話をしてくれたので、いつも不安と恐れの中で無気力になりがちな私にとって、大きな励みとなりました。しかし、受験に失敗してしまいました。浪人中一年かけて聖書を通読しました。

 

その後大学合格と同時に、恩師の牧会する教会に通い始めました。不安と恐れが解決されて正しい生き方を見つけることができるのではと思ったからです。しかし依然としてパニック障害の発作が時々現れて、私を苦しめました。

「こんな状態が続けば将来、就職もできない」

 

 考えることは悪い方へ、暗い方へと際限なく広がり、消極的・否定的になるばかりでした。ところが、聖書を学ぶと、こんな私をも主は命がけで愛してくださり救ってくださるということが分かり、イエス・キリストを救い主として受け入れました。その年のクリスマスには、洗礼を受けました。

 

 それからもパニックの症状はありましたが、その中で必死に祈ることができました。すると、み言葉が慰めとなり、私の心を落ち着かせました。

「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから(詩篇23篇4節)」

 このみ言葉は、特に私の力となりました。

 

高校恩師の導きで救われた後は

献身の決意で癒しを体験

 ある夜、またパニック障害の発作が現れました。

「主よ、苦しくて不安です。この不安と恐れとこの症状を取り去り、癒してくださるならば、自分を捧げます。私をどのようにしようとかまいません。伝道者になれとおっしゃるなら、それに従います」と必死に祈りました。

 

 すると、心が落ち着いていきました。「このように祈ってしまったが、もし伝道者になれとおっしゃったら、こんな自分でもお役にたてるだろうか…」と思いました。しかし、大学二年の正月の新年聖会において主は、「私の子羊を飼いなさい」と明確に語ってくださいました。

 でも、すぐに「従います」とは応答できませんでした。私は口下手で人前で話すのが苦手だったからです。自分では牧師という器とは思えませんでした。かつて、夕拝のメッセージを任されたことがありましたが、あまりの緊張に5分ほどたったところで気を失って倒れてしまったことがあるくらいです。もう二度と人前で醜態を演じたくはないと思っていました。ところが、献身の思いが離れず、断食祈祷をしているときに、このみ言葉が与えられました。

 

「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。(エレミヤ1章7,8節)」

 

 主はいつも共にいて時にかなった助けを与えるという約束と愛とご配慮を深く感じて「従います」と答えました。献身することを決意してからは、あれほど悩んでいたパニック障害が完全に癒されました。

 

 その後、大学を3年で中退し、神学校へ進学しました。1969年3月に神学校を卒業。4月に結婚し、5月から夫婦で開拓伝道を始めました。沖縄市の照屋に6畳の部屋を借り、教会学校から牧会を始めました。その後、米軍払い下げの建造物(かまぼこ型のコンセット)を無償で頂き、1972年にこの宮里の土地に会堂を建てました。

 

子ども伝道へ、保育園運営へと

導かれ親子二代で取り組むことに

 

 その中で、近所の方々から「子どもたちを預かってほしい」という要望があったので子どもを2人預かり、会堂の一部屋で小さな保育園を始めました。経済的に苦しい状態の中で伝道を続けていましたが、神さまの不思議な導きで子ども伝道につながる保育園運営の道が開かれました。10年間、宮里の地で保育園を運営しながら牧会を行いました。

 

 それから1986年に『社会福祉法人栄光福祉会』を設立して理事長に就任し、同年高原でシャローム保育園の運営をスタートしました。保育園では、子どもたちにはもちろんですが、クリスチャンではない保護者や職員たちにも聖書の話をします。教育は本来、親がなすべきものです。親は神様のみ心に沿って子を育てていくことを神様からゆだねられています。

 しかし現実には共働きが多く、親が「仕事のために教育ができない」ということで、保護者の中から教師が立てられたのです。教師は親の代わりとなります。ですから、イスラエルでは「わが子よ」と愛情をもって呼びかけて教育していたのです。だからこそ、預かっている子どもたちに、神のみこころに沿い、愛情をもって聖書に基づく教育をしていくことが教師の責任だと考えています。

 

 また、2012年、沖縄市の公立保育園の民営化第一号として、宮里保育園の運営も始めることになりました。これらのことから私たちは、神さまから子どもたちに対する使命を与えられてきたと思っています。

 保育園では、子どもたちにみ言葉を伝えていましたが、少子高齢化の影響から教会からは子どもたちの姿がなくなり、日曜学校は閉鎖状態となっていました。信徒の子どもたちが成長して教会学校を卒業してしまうと、次の世代の子らがやってこないのです。

 

 この状況をどうにかしたいと思って祈っている中で、神様の不思議な働きが始まり、今では子どもたちの声が聞こえてくる教会へと変わっていきました。それは娘夫婦が沖縄に帰って来たことから始まりました。

20神様から与えられた子ども伝道の使命を

親子二世代で受け継ぐ

 

新垣栄市協力牧師

悲惨な戦争体験に加え両親を

亡くした痛みでパニック障害に

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